【下田】権力者に利用され翻弄された幕末女子の一生。涙なくして語れない【唐人 お吉】を偲ぶ

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【下田】権力者に利用され翻弄された幕末女子の一生。涙なくして語れない【唐人 お吉】を偲ぶ
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お吉供養祭

お吉の命日3月27日は供養祭が催されます。

タウンゼント・ハリス

お吉は 初代駐日総領事ハリス に仕えました。

男女混浴の公衆浴場にて

ハリスがお吉を見初めたのは、ここ。
美しいお吉は、口にぬか袋を咥えて出てきました。

身長171cmの長身美女

「お吉」の本名は「斉藤きち」
愛知県の知多郡に生まれ。

4歳の時に下田に移り住み、
14歳で芸妓となりました。

ハリスと出会った17歳のお吉は、
身長171cmの長身美女でした。

奉行所に呼び出される

お吉は奉行所に呼び出され、
「ハリスに仕えるように」と要請され、
それを即座に断りました。

鶴松という許嫁がいたからです。

しかし下田奉行所組頭の伊佐新次郎は口荒く、
『吾が一身に生きるか、お国の為に生きるか』
と、強圧的にお吉に迫りました。

鶴松の裏切り

船大工の鶴松とお吉は
幼少の頃よりよく知っている間柄でした。

下田を襲った安政の大地震に次ぐ大津波で
大混乱から身を守ってくれたのも鶴松でした。

組頭の伊佐はハリス懐柔の為、
何が何でもお吉を出仕させたい。
そこで鶴松の説得にかかります。

「お吉を諦めれば侍にとり立て、
名字帯刀をさし許す。」

船大工の鶴松は「河合又五郎」と名前を変え、
奉行役人に出世して江戸へ移りました。
その後妻を与えられ、明治になるまで
造船係の武士として暮らしました。

伊佐の取引によって鶴松に裏切られたお吉は、
鶴松の出世と引き換えに、
ハリスへ出仕せざるを得ませんでした。

駕篭に乗せられハリスのもとへ

失意のお吉が出仕するにあたり、
支度金25両、年俸120両が用意されました。

現在の価値でいくらになるかわかりませんが、
半農半漁の村民にとっては
とんでもない大金だったようです。

その上、武士の娘という名目で駕篭に乗り、
侍や雑役人をはべらせての館入り道中。
村民はお吉に嫉妬しました。

沿道に人垣ができ罵声や石が投げられたのです。

ハリスの『看護婦』

混浴の公衆浴場でお吉を見初めたハリス。
どれだけスケベなおっさんかと思いますが、
実はハリスは敬虔な聖公会信徒。
生涯独身を貫きました。

多忙疲れていたハリスは、
「ナース」を必要としていたのです。

当時の通訳は
「英語 ←→ オランダ語 ←→ 日本語」
という2段階であったことと、
当時、看護婦という職業が無かったため、
役人も村民も、恐らくお吉本人も
「側妻」と勘違いしたのです。

お吉、牛乳を買う

ハリスが滋養に所望したのは牛乳でした。

当時は禁制であった牛乳を手に入れるため、
お吉は足指の爪が剥がれるまで、
譲ってくれる農家を探し歩きました。

「牛の仔が飲むものを飲む気か」と
村人はお吉を畜生扱いし、
罵声と嘲笑の的にしました。

ハリスは牛乳と牛肉の栄養価と酪農について
奉行に話して聞かせると、
間もなく奉行所は牛乳調達資金を支給し、
お吉が公然と買えるよう取り計らいました。

この件が
日本国で初めての牛乳売買と言われています。
現在の乳製品と牛肉食の発展は、
ハリスの遺徳にあるのですね。

日米修好通商条約の影の立役者

お吉の献身的な看護によりハリスの心も和み、
通商交渉は円滑に進みました。

ハリスは江戸で「日米修好通商条約」を結び、
生糸や茶を初めて正式に米国へと輸出しました。

特に静岡県は茶の輸出で盛況を呈しました。
裏にお吉の献身があったからかも知れません。

お吉、再出発

お吉は約3ヵ月間ハリスの看護婦を務め、
病気が原因で役を解かれました。

その後、松浦武四郎に伴われ、
祇園で芸妓をしながら開国運動に
奔走したと伝わります。

松浦は勝海舟や吉田松陰とも深く関わり、
お吉も京で多くの志士と交流があったかも知れません。


維新後、
お吉は髪結いの技術を身につけました。
長崎の「唐人まげ」全国に流行したので、
下田に戻って髪結業を営みます。

後に「小料理屋 安直楼」を開業しますが、
どちらも数年で廃業に追い込まれます。


相も変らぬ世間の偏見や差別の渦は激しく、

「お吉の所へ行くと髪が抜ける、手が腐る」

と風評をまき散らされ、
客足が遠のいてしまったのです。
哀れなお吉は、次第にやけ酒の量が増し、
自暴自棄になっていきます。


小料理屋 安直楼

(現在、内部は非公開です。)

不幸の元凶・伊佐を訪ねる

鶴松との仲を引き裂き、
強引にハリスに出仕させた奉行「伊佐」。

伊佐は当時の幕府では重要学識者で、
高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の師です。
ハリスが下田条約を結んだ頃、
下田で外国人との折衝役に任ぜられました。

伊佐は条約成立の功績と茶輸出の成果によって
大出世を果たします。

山高帽、蝶ネクタイ、マント姿に靴を履き、
ステッキを持って歩く姿に村民は驚きました。



世間の非情に堪り兼ねた孤独なお吉。

自分を不幸にした伊佐。
苦情を訴えるため訪ねて行ったが、
不在で会うことができなかったようです。

伊佐ゆかりの寺、島田市の法林寺

狂乱

鶴松の裏切り、
お国の為に己を犠牲にし、
その後は髪結業も小料理屋も廃業。

お吉は自暴自棄に陥り、酒乱の末に脳梗塞で
半身不随になってしまいます。
娘時代「下田一の芸妓」と謳われた
お吉の零落です。

下田の浮浪者の1人に数えられ、
食べ物を求めて宿屋の裏口の残飯を漁り、
動かぬ足を引き摺って歩く姿は悲愴、
ぼろの着物、乱した髪、垢だらけの顔、
口に泡を飛ばして喚く姿は狂人そのものでした。

伊佐、お吉を探す

お吉の人生を一転させてしまった伊佐は、
「お吉が狂乱した」と聞き、
見舞うために探し廻りました。

ようやく見つけたお吉の姿は、
17歳、初対面の頃の見る影はありません。

お吉はヨロヨロと伊佐の前に滲み寄り、
じっと睨みつけるやいなや、
伊佐の蝶ネクタイをつかんで殴りかかりました。

「伊佐め、生きていたのか、
自分だけ出世すればそれで済むのかー」

伊佐は怒ると思いきや、
お吉の前に両手をついてひざまづき

「苦しかったろう、お吉。勘弁してくれ、
こうするよりどうにもならなかったのだ」

と、額をつけて涙を流して謝ったのです。

お吉、入水

明治24年3月27日。
門栗ヶ淵の上流、豪雨の夜。

「夜中に御詠歌を唄う女性の綺麗な声が
聞こえていました。
朝になってこの人が逆さに浮いていました。」

下田一の芸妓と謳われたお吉は、
最期に華声を残し入水、51歳でした。


身寄りのないお吉は二日間も野ざらしにされ、
大勢の村民の見世物になりました。

そこへ宝福寺の住職が通りがかり、
お吉の遺骸を引き取ることにしました。

しかし、死んでもなお
「唐人に触ると指が腐る」と嫌われ、
お吉を運ぶ人夫がなかなか見つかりませんでした。

お吉ケ淵

お吉が入水した淵。
現在は「お吉ケ淵」と呼ばれています。

宝福寺

お吉のお墓は宝福寺にあります。

昭和に入り、
お吉を題材にして大成功した舞台俳優が
お礼参りに訪れました。

そして、お吉の粗末な墓を哀れに思い、
共同で立派な墓を寄進しました。


実は、
この悲話は舞台用にかなり脚色されています。

昭和初期に映画・演劇・新聞小説などで
「唐人お吉ブーム」が起こり、
悲話にすればするほど当時の日本人の
「反米意識」に深く焼き付きました。

史実では、ハリスが牛乳を所望したとき、
お吉は既に解雇となっていました。
他の看護婦が調達していたのかも知れません。

ハリスと通訳のヒュースケンに仕えたのは、
きち、ふく、きよ、まつ、さよ、
いずれも10代前半の下田女子が5名いました。

その中でもお吉の生涯は、
実にドラマチックに描かれています。

『お吉供養祭』

毎年3月27日。
お吉が入水した「お吉ケ淵」では
緋鯉(お吉)と真鯉(鶴松)が放流され、
孤独に生きたお吉の霊を慰めます。


3月はお吉を偲び、
お墓参りに出かけてみてはいかがでしょうか?


【宝福寺】へは石廊館から車で15分です

↓↓↓お吉の墓の隣には龍馬の気配!


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