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【下田】215年-鎖国の眠りを覚ました黒い怪物【開国の街・下田】

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【下田】215年-鎖国の眠りを覚ました黒い怪物【開国の街・下田】
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下田市最大のイベント「黒船祭」

毎年5月の第3土曜日をはさむ3日間、市内各地でイベントが催されます。
厳かな記念式典や墓前祭だけでなく、調印再現劇、日米親善ゲーム大会、
サンセットコンサートや海上花火大会など、わくわくイベントが次から次へと。

公式パレード

第七艦隊音楽隊

町娘や侍がふつうに闊歩しています。

盛り上がり最高潮!迫力の日米親善綱引き大会

黒船来航事件とは?

1853年6月。日本は12代将軍徳川家慶の時代です。
ペリー提督率いる蒸気船2隻と帆船2隻が浦賀に入港しました。
目的は米国12代フィルモア大統領の親書を将軍に渡すため。

「友好、貿易、石炭と必需品の供給、遭難者の保護」
このために開国して欲しいと書いてありますが、
要するに捕鯨の為の補給港が欲しかったのです。
産業革命最盛期の北米では大量の油を必要としていました。
伊豆諸島やカムチャツカ半島の南東はクジラの良い漁場でした。

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」

(高級茶「上喜撰(じょうきせん)」とペリー提督の「蒸気船」を掛けたもので、
黒船来航で人々が夜も眠れぬほどの騒ぎだったことが詠まれた狂歌です。)


天下泰平の平和ボケに浸っていた幕府は狼狽し、この親書を受け取るため
与力(今でいう警察官)を向かわせますが、ペリー提督は小物のお遣いに対し、

ならば直接将軍に渡すまで

と、威圧的な態度で上陸を迫りました。

仕方なく幕府はこの大統領親書を受け取りましたが、即答は致しません。
将軍家慶が病気であったので、「一年後に返答する」と約束し、
とりあえず上手に日本から追い出しました。

慌てふためく武士を横目に、庶民は物見遊山

ペリー提督9隻の大艦隊で再来航

ペリー提督は、将軍家慶の死を待機していた香港で知りました。
またと無い国政の混乱時を逃すまいと、一年の猶予もそっちのけにし、
わずか半年で9隻の大艦隊を率いて浦賀へ戻ってきました。

第13代将軍家定もまた病弱、老中にも名案はなく開国要求に頭を悩ませました。
国内では異国排斥を唱える攘夷論が高まり、鎖国維持派の志士や公卿がそれを
支持していました。

日米和親条約締結の裏に隠れたタフ・ネゴシエーター

常に高圧的なペリー側は、難癖をつけて自国に有利な方向へと導きます。
しかし、それに立ち向かったのは林大学頭(はやしだいがくのかみ)でした。

ペリー:「貴国は漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。
     難破船を助けることもしないではないか。」
大学頭:「事実に反している。漂流民は手厚く保護し、長崎へ護送、その後は
      オランダカピタン(商館長)を通じて送還している。
     大洋で救助できないのは、大船の建造を禁止しているからである。」

ペリー提督は林大学頭にいちいち論破され、自説を取り下げます。
そして通商の話へと持っていきます。

ペリー:「では、なぜ交易は承知されないのか。よその国はどこも交易が
     盛んになり、富強となっている。貴国も交易を始めよ。
     ぜひともそうされたい。」
大学頭:「日本国においては自国の産物で足りており、外国の品がなくとも
     不便はない。
     そもそもおたくの大統領は『人命の尊重』と『船の救助』と
     申された。交易は人命とは関係ないではないか。」

大統領親書を逆手に取った反撃に、さすがのペリー提督も沈黙しました

交易の回避に成功した上、ペリー提督が5か所の開港を求めたのに対し、
下田(即時)と箱館(1年後)の2か所開港にとどめるなど、
林大学頭は強い姿勢で交渉しました。

決して、ペリー提督が圧倒的な武力を背景に、無理やり開国させたのではない。
幕府側も、ビビり倒して言われるがままに開国したのでなはい。
ということがお分かりいただけると思います。

ペリー提督のオランダ語通訳ポートマンのスケッチ

右奥が林大学頭、左奥がペリー提督、中央こちら向きが森山栄之助(蘭英2か国語通訳)

こうして下田は日本の玄関に

なぜ下田が開港されたのかというと、
・もともと下田は江戸~堺(大阪)間の風待ち港として栄え、
 江戸に入る荷物を調べる船番所があったこと、
・海上だと品川から半日で着くこと、
・更に大事なことは、陸路だと江戸まで5日もかかる事。
遠からず近からず、便利なようで不便な下田へ押し込んだのです。

余談ですが、「下田即時開港」と聞きつけてすぐに動いた人がいます。
浦賀の警備の厳しさに密航のチャンスを掴めなかった吉田松陰と金子重輔は、
「下田でなら」と艦隊を追いかけて下田へ入りました。

了仙寺が日米交渉の舞台

日米和親条約の付属、下田条約はここで結ばれました。
ペリー提督は旗船で寝食し、この了仙寺へと通っていました。

ペリー提督が上がった場所に碑があります

ペリー提督が通った道は「ペリーロード」と名付けられました

伊豆石となまこ壁の建物、しだれ柳が良い雰囲気です。

おまけ

了仙寺が見えてきました

ここで下田条約が結ばれました

ペリー提督が見た下田

日米和親条約締結によって、下田は日本で最初に外国人に開放された街でした。
第5条にこう書いてあります。

「下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および
中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。」

下田湾の小島から半径28km以内であれば、米国人は自由に動けました。

下田の村民は外国人を怖がる様子もなく、逆に面白がった様子が
かわら版(当時の週刊誌のようなもの)に残されています。

適当なペリー提督の顔、
贈り物をもらってペリー提督がペコペコしていた、
体の大きな米国人に負けないように、力士が60人も連れてこられた、
など、デマを面白がって書く余裕があったことが分かります。

「下田女子は水兵の金のボタンを欲しがった」とか、
「水兵が内緒で船から持ち出した珍しいものを見せてもらって喜んだ」など
積極的に外国人と交流していたようです。


しかしながら、当時日本国には食肉の習慣が無かったため、
「家畜を食べられては大変」と、牛を山に隠したりしました。

因みに、「牛乳売買の始め」と言われるのはここ下田です。
初代駐日総領事ハリスが牛乳の栄養価を奉行に説きました。

ともあれ、
ペリー提督は天然の良港である下田を開港場としたことに満足したそうです。
また、街中は上下水道の設備が整い、住民は非常に清潔で文化水準が高いことに
驚いた、という記述も残っています。

いかがでしたか?
歴史あふれる下田街中散策&イベント盛り沢山の黒船祭、
是非お散歩にお出かけくださいね。

【下田の街中】へは【海辺のお宿 いそかぜ】から車で約5分です


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